|旅|
[一日目:出立〜花巻]
朝五時台の列車に乗るため、家から駅までの道のりを歩く。未だ明け始めの空は、雨の気配を含んだ雲がうっすらと覆う。二泊分の荷物を小さくまとめたバックパックは軽く、キャンバス地の上着の一番上までボタンを留める。しんと静まりかえった始発の駅のホームに、人は数える程度で、吐く息は微かに白い。やがて入線した列車に乗り込むと、一度大きく揺れて、ゆっくりと動き出す。南へゆくことは多くとも、北へ向かう機会の稀な所為だろか。旅に出ると云う高揚が静かに波立つ。
列車を乗り継ぎ、乗り継ぎ、海沿いを走り、山間を抜け、レールは二列になったり、一列になったり、約八時間の鉄道の旅だ。灰色の車窓をいわきで乗り換えて、一時間程経った頃に朝の腹ごしらえ。午前八時半、原ノ町。首から年季の入った木のばんじゅうを下げた、駅弁売りの小父さんがホームを行ったり来たり。幾人かの人たちが呼び止めては、できたてのを買い求めて居た。ここから仙台行きの列車はボックス席。向かいに座ったおばさんが、膝の上の時刻表が目に入ったのか、旅行なの?と尋ねてくる。はい。と答えると、おばさんは18きっぷで色々なところへ行くらしい。どちらまで行くの?盛岡?ああ、とても良い所だね。私もね去年行ったの。鳴子温泉も良かったよ。聞けばこの日、おばさんは仙台へ行くとのこと。午前十時過ぎ、仙台着。互いに、どうぞ気をつけて、と列車を降りた。
ここからは東北本線。待ち時間に、駅ビル内の某シアトル系の店にてコーヒーを買い求め、早めにホームへ向かって車内に乗り込むと、心なしか、常磐線よりも暖房が強いよな気がする。そう、ここは東北なのだ。途中、浅い眠りにうつらうつらしたり、急にずるりと深いところに落っこちるよな、不意の深い眠気に吸い込まれたりを繰り返しながら、12時半少し前、一ノ関に到着。乗り換えは慌しく、ホームも階段も皆が駆け足。乗り換えて暫くすると、ふと、自分は何故こんな遠い所に居るのか?などと想う。窓の外には冷たい雨が細くそぼ降り、山々の色味に東北の春の未だ遠いことを知る。やがて列車は北上の地に入り、ほっとした心地になった頃、花巻にて下車。『宮沢賢治記念館』 へ。
駅横の観光案内所で路線バスの時刻表を貰い、雨を避けるよにして軒先へ引っ込む。程無くして記念館行きのバスが到着。数名の乗客と共にいそいそ乗り込むと、懐かしや。床の部材が板木であることに気付く。そう云えば、いつ頃から木の床を見掛けなくなったろう。バスは商店の並ぶ街中を抜け、橋を渡り、やがて大きな道路に入って山の方へと向う。斜め前の席、じいと地図に見入る娘さんは、毛糸の帽子に手袋、分厚い靴下、踝丈の編み上げスニーカと重装備。この子もきっと同じ所で降りるのかしら。記念館の下で降りたのは、やはり娘さんと私だけ。娘さんは後ろを振り返りもせずに、頑なな面持ちに、口をきゅっと一文字に結んだまま、早足で坂を登り始めた。私ものろのろと後に続くが、思いの外、坂道はくねくねと急なものだから、情けない哉、少し息が上がる。登り詰めたところに記念館の門。生憎の天気で、駐車場に車は疎ら。頑なな娘さんは、既に記念館へと向って居る。
もうとっくに昼をまわり、お腹もいい加減に減ってきたので、他に選択肢も無い故、館内へ入る前に敷地内のレストランでもって、お昼を摂ることにしたのだけれど・・・。人間、美味しいものを食べると身も心も満たされ、足取りも軽くなるものなのだが、この昼は足取りも重く、何故だかうら寂しい心持ちでレストランを後にした、と書いたら、どんな按配であったかお察しもつくだろか。
ここへは以前に一度来たことがある。もうかれこれ17〜8年も前の夏のことだから、私の記憶と云うのも実に曖昧で、はっきりと覚えて居るのは、記念館の下の日時計花壇くらい。確か帰りには高村山荘へも寄った。こんな風だったかしら、などとしみじみ展示物を見てまわる内 「イーハトーブ」 がエスペラントであったことを、恥ずかしながら初めて知る。小さな館内を二周り程すると、本数の少ない帰りのバスまでの時間の使い道は、やがて無くなった。せめて天気でも晴れてくれて居ったなら、日時計まで降りて行ったり、清々しい森の中を散策したりもできたのに。ロビーの喫茶スペースにて、珈琲を飲みながらぼんやり。窓の外には山の木々。葉を落としたままの、未だ寒々しい枝木の間から、ずっと向うの山並みが臨める。春や初夏の頃の天気の良い日なら、どんなに美しいことだろ。
帰り際に、受付の物販にて手帳を買い求めて、帰りは楽な坂道を下るも、外はどんより薄暗く、寒さも雨足も一層に増してきた。震えながらバスを待つ時間は、実際の時間よかずっと長く感ぜられ、カーブの向うからバスの頭が見えるや、ようやくほっとする。乗客は私とお婆さんの二人だけ。途中で降りる人も乗る人も無いまま駅に着く。定刻を随分早めに着いたものだから、予定では乗れない筈だった盛岡行きの快速に運良く間に合い、駈け足で乗り込んだ。二列に並んだシートに深々沈み込むと、途端に重い眠気が意識に被さる。帰りまで見掛けなかったけれど、あの頑なな娘さんはどうしただろか。アナウンスで起こされる頃には、終着の盛岡。