|旅| |回想|
先日、探しもののついでに、古い写真のネガを整理するため、分厚くなった茶色い紙袋の中身をごそり取り出したところ、山のよなネガに混じって数枚の写真が出てきた。いつだったかの正月に従妹らと撮った写真。それと、二人のナポリ人の青年の写った写真。私は十年近くも前に旅先で知り合った、この二人の青年の名を、今でもはっきりと覚えて居る。
小柄でずんぐりした、人懐こさの滲み出る風貌が誰からも好かれたスクイージは、写真の中で、私がスコットランドから持ち帰った、タータンチェックのベレー帽をかむって居り、もう一人、長い黒髪を額の真ん中で分け、ナポリ人らしい野性味の在る美しい目鼻立ちの中にも、孤独と繊細をそっと漂わせるアルネストは、草臥れたソファーの肘掛に座ってはにかみがちに笑って居る。その夏の私は、友人たちと共にロンドンの安宿に滞在して居たのだけれど、宿のマネージャーと云う人物が大層エキセントリックな人物だったこともあって、彼の切り盛りするその宿もまた同様だったのではなかろか。
二人の青年は宿の客であると同時に、宿泊費を免除して貰う代償として、宿のあらゆる雑用を引き受ける従業員でもあった。古株のスクイージはマネージャーの信頼も厚く、口では小言を云いながらも、年下で英語の殆ど話せぬ新米のアルネストを、根気強く面倒見し、私たちともすぐに近しくなった。「スクイージ」と云うのは勿論、名前では無い。宿の仕事の他に窓拭きのアルバイトをして居ることからついた渾名で、本名をルイージと云う。恐らく、三十には未だ遠かったと想うのだけれど、そのずんぐり体型に加えちょっと薄い頭髪も手伝ってか、スクイージは何処から見ても実際の年齢よりもずっと老けて見え、口の端っこに楊枝をくわえて魚をさばいて居るのがしっくりくるよな、典型的ナポリの下町の小父さんと云った風貌で、わざと軽口を叩いては居たけれど誰よりもしっかり働いた。節くれだってすっかり固くなったその両の手は、彼の生活の様々に、きっと口では云えぬ苦労がついてまわったせいなのだろう、とそう感じさせるだけの説得力があったよに想う。手と云うものは時として、その人の人生の欠片を寡黙に語ることがある。
その夏の宿での最大派閥はイタリア人だったが、彼らの殆どはミラノやローマから遊びに来た、如何にもの現代っ子らで、数々起こった騒動の元を辿ると、大抵の場合は彼らが原因なのもしばしばだった。人見知りの無いスクイージは、彼らと会話を交わすことも度々あったけれど、私は彼らが垢抜けしない南部のナポリ人の彼を、人目を憚らずに笑いの種として居たことを知って居たし、恐らくスクイージ自身も、それを知って居たよに想う。一方でアルネストは、英語を話すこともままならず、かと云って勿論、ローマっ子やミラノっ子の輪に加わることもできず、唯一の話し相手と云えば、専らスクイージただ一人。当初は、私たちが部屋の掃除にやって来る彼に何かを話し掛けても、すぐ口篭もってうつむいてしまうので、なかなか打ち解けることが無かったのだけれど、或る日、共有のラウンジに集まって音楽番組などを観て居た折に、何かおかしな会話がきっかけになって、私たちは初めて彼の笑顔を目にし、名前を知り、ようやく打ち解けることができたと記憶して居る。
未だ二十歳にもならぬアルネスト。このままずっと国に居ても良いことなどひとつも無いけれど、ここに来れば何とかなるのではないか?との淡い期待を胸に、無け無しのお金を持って独り。一度も離れたことのない故郷を出てロンドンへやっては来たものの、世の中が歳若い青年の考える程優しいもので無いことは、着いて間も無しに、冷たい現実となって、ぶっきらぼうに彼の前へと差し出された。彼にとってのロンドン暮らしが、本来の希望とは裏腹の、苦々しく無意味なものであったとしても、他にあての在る筈の無いことなどを考えれば、恐らく、自分ではどうすることも出来なかったのだろう。無知と云ってしまえばそれまでかも知れないが、彼には彼なりの苦悩が在ったのだろうし、ナポリでの生活がどれ程であったのか、私たちが容易に推し量ることはできない。ただ、この横顔の陰影の美しい内気な若者の、良く見ると丸っこい鼻先や大きな黒い瞳を見るにつけ、その風貌には、どう云う訳だか私を不安にさせるだけの何かが、確かに在ったよな気がする。また、マネージャーは度々この、見目以外は凡そナポリ人らしからぬ青年に、何とかして英語を覚えさせようと試みはしたものの、悲しいかな、それは大抵の場合徒労と終わった。
やがて夏も終わりに近付き、友人らの半分は帰国。残った私たち数名は、当初の予定通りスコットランドへ移動することになった。それを聞いたスクイージが血相を変えて捲くし立てる。「どうしてだ?ここが嫌になったのか?」 「何週間かしたら、またここに戻ってくるから大丈夫だよ。」 そう答えると、彼は途端に安堵の表情を浮かべ、見慣れた人懐こいいつものスクイージに戻った。アルネストは何も云わず、彼の後ろに立ってただうつむいて居た。騒々しい問題児ばかりの、まるで動物園のよなこの宿で、私たちは何故かマネージャーを始め、従業員たちにも可愛がって貰った気がする。男ばかりの従業員の紅一点で、意志の強そな口元と赤みがかったカーリーヘアが印象的な、唯一訛りの無い流暢な英語を話す聡明な女性、カタラン人のメリンダが云った。「戻って来ると分かって居ても、やっぱりあなたたちの居ないのは寂しいわ。私の大好きな人たち・・・。」
スコットランドへと向う日、余分な荷物を預かって貰うことにして宿を出ると、玄関にモップを持ったアルネストが、ひとりぽつんと見送りに立って居た。またすぐに会おうね。私たちがそう云うと、はにかみながら、こくり頷いた。