双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

ガッティの背中

|電視| |徒然|


BS朝日にて、昨晩放送されて居た
『イタリアへ―須賀敦子・静かなる魂の旅』*1
をご覧になった方はいらっしゃるかしら。
私は、BSデジタルの番組を観られる環境に
居らぬため、残念ながら観ては居ないのだけれど、
原田知世の朗読は、きっと、旅するよな映像の
間に間に、静かで穏やかな足跡を、そっと残した
ことだろうと思う。地上波にての再放送など、
後々在れば良いのだけれど。



さて。須賀さんのエッセイ『ミラノ・霧の風景』の中に『ガッティの背中』と云うお話が在る。須賀がローマからジェノヴァに到着した日、駅で出迎えてくれたのが、後に彼女の夫となるペッピーノ、そして長髪に鳥打帽を被り、レトロなコートを羽織った、何処か「ツルゲーネフの親戚」を思わせる「じじむさい」風貌のガッティ、コルシア書店の仲間となるその人であった。
ガッティは出版社勤めの傍ら、須賀も加わることとなる、カトリック左派の仲間でつくった自主グループの、活動拠点であるコルシア書店、その奥まった小部屋の二十ワットの黄色い電球の下で、編集の仕事を手伝って居たのだが、やがては彼の信頼する出版社のリーダー、アドリアーノの死、そして続く自身の母の死と共に、その精神の均衡を次第に失ってゆく。この、ロンバルディア王国最後の王と同じ「デジデリオ」と云う名を持つ友人は、須賀が日本へ戻った後も、交流を途絶えさせることは無かったが、日増しに気難しくなり、他人を寄せつけなくなってゆき、そしてついには、すっかり精神を病んで、ホームへと入所してしまう。
そんなガッティの面倒を引き受けたのが、その昔ガッティがかわいがり、時を経て立派な精神科医となった、かつての少年、ベネディットであったことが、哀しい話の中の、唯一の救いに思える。須賀はホームでガッティとの再会を果たすが、そこに居たのは、確かにガッティ本人であっても、もはや須賀の知るガッティでは無く、その事実は、須賀をしたたかに打ちのめす。


まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、というわたしたちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンを口に運びはじめた。
幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。

須賀の友人がポケットから出すキャンディーを、
その、昔と変わらぬ平べったい指先で、ひとつひとつ
大事そうに紙をむきながら頬張る、まるで
子供になってしまったガッティ。スープを飲む
大きな子供の背中を、須賀はどんな想いで見つめたのだろ。
このくだりを読む度に、私は何故だか涙がでそうになる。

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