双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

溜息しか出ない

|戯言|


嗚呼。
お上が匙をぶん投げたとしか思えぬよな、惨憺たる有様となってしまった。
案の定と云うか、見事なまでに予想通りである。
命だ医療だ守り抜くだの何だの、散々大きく宣っておきながら
いざ蓋が開いたら、やれ自分の身は自分で守れだの、制御不能だの。
開き直りも甚だしいったら、全く笑わせてくれるじゃないの。
まぁ、こちとら端からこれぽちも信じちゃ居ないが、
白々しい云い訳も、口先だけの嘘っぱちも、いい加減聞き飽きた。
さあて。この先、我々は果たして何処へ連れていかれるのか。
何処にせよ、片道切符でないことを祈るばかりである。


自分の身は自分で守る、などと今更上から云われるまでも無く、
そんなものは疾うに当たり前。従って、只今休業中なのである。
と云うのもこの期に及んで、未だにお気楽軽率な輩が散見されるため、
幾らこちらが対策を徹底したところで、それにも限度が在る。
このまま店を開けておくのは危険だ、と判断してのことであるが、
うちのお客さんには医療・介護関係のお一人様も多く、
彼らの立ち寄るのは、日々の激務の中のほんの一時。
それだってままならず、ようやっと得られた一息だのに、
その場を閉めざるを得ない申し訳なさで一杯になる。
もどかしい。遣る瀬無い。


今年の八月は無かったものと思うしかないか。
今年の八月は無かったのだ。
はあ。もう溜息しか出てこないや。

八月雑感

|雑記|


未だお盆も終わって居ないのに、空も風も既に秋の様相。
国を挙げての白々しい大狂騒が一先ずは去り、
その後で間も無しにやって来るのは、不気味な暗雲か。
何しろ、お盆には地獄の窯の蓋も開くのだ。
くわばら、くわばら。


新型某のワクチン接種券が昨日届いた。
案内のオンライン受付を確認してみたところ、
徒歩で五分も掛からぬ近所のクリニックで
実に、明日にも予約可能と在り「へ?」と拍子抜け。
昨日来て明日ってのもどうかと思い、来週の木曜にしたが、
呆気ないくらい、あっさりすんなり予約完了。
人口や規模の相違は勿論在るのだろうけれど、
大都市部の混乱や滞りとの落差に、複雑な思い。


人間という生き物の浅ましさ、身勝手さ、出来の悪さを
改めて嫌と云うほど思い知らされた、今年の夏。
宵風に流れる夏祭りのお囃子の音が聞かれなくなって、二回目の夏である。
またひとつ。季節が足早に遠のいてゆく。

ちいさなこと

|縷々|


畑で採れたばかりの玉蜀黍と胡瓜と大葉の刻んだので、さっぱりした酢の物拵えて、
ロッコインゲンは天ぷらに。鍋へ湯を沸かし、ほどいた素麺を茹でる。
夏の日差しの中に浮き上がって、暇になってぽっかり、空っぽの午後。
黙々としみじみと、咀嚼しながら、視線の先にかかった潾二郎の絵を眺めて居る。
イガイガささくれだった心が、すうと平らかになってくる。
とても律儀だけれど、やわらかな筆づかい。
大事に大事に描かれた、やさしい線。


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                              長谷川潾二郎『猫』(1966)

日曜予定

朝六時起床
朝食後アトリエへ入る。十二時まで三十分休憩。
アトリエへ、三時まで仕事。休憩一時間。
アトリエへ、五時まで。
夕方近所を散歩すること。
夜は十一時前に就寝。
一日一回必ずフランス語を読むこと。
アトリエはいつも掃除してゴミ一つ落ちていないようにすること。

長谷川潾二郎『詩と感想』(1965 ―1969)より


嗚呼、そうなのだ。
人の暮らしは無数の小さなことで出来て居る。
仕事をして、御飯を食べて、掃除して。
散歩の喜び。学びの喜び。
些細なことの積み重ねで、毎日が在る。
ささやかで、当たり前の、人の営み。
たかがそんなもの、かも知れないけれど、
そんなものこそが大切なのだ、と思う。
そんなものですら、ままならないと云うのなら、
それは、人が人らしくあれる世界じゃない。


日々の暮らしからかけ離れたところの、見たくればかりの大仰さ。
その強引な厚かましさ、何と云う白々しさよ。

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